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東日本大震災 わが町内会の記録
(八木山本町第一町内会)

八木山本町第一町内会
会長 石丸 幹芳

 私は東日本大震災が八木山地域にとって「天佑」ともいうべきタイミングで起きた、と思っている。
 あの3月11日。まだ雪が舞う寒い日。汗をかかないから風呂に入らずとも我慢できる。使用後のトイレに水を流さずともハエの心配がない。避難所になる八木山小・中学校は学期末・年度末。特に八木山中学校は「明日が卒業式」という日であった。
 しかも、動物公園もベニーランドも「シーズン・オフ」。
 そんな中で
 私どもの町内会は、八木山市民センターを避難所として立ち上げた。
 地震が起こった時刻は午後3時前。日がとっぷり暮れるまでの3時間は、われわれに「避難所を避難所らしく整える」のに十分な余裕を与えてくれた。
「八木山市民センターは補助避難所じゃないか?」と言われるが、私どもの判断・行動は今でも正しかったと信じている。
 これがゴールデンウイークだったらどうだったであろう。その議論はこれまで聞いたことが無い。
 道路や小学校校庭に止めた車が、われ先に家路を急いだことだろう。
 天守台は崩落で通行できない。鹿落坂も同様に通行できなくなった。
 通行不能と知った車が方向転換して次の道を探す。まだ気が付かない車が続々と押し寄せてくる…。
 あたりは大混乱になったであろうことは容易に想像できる。
 ゴールデンウイークに、八木山一帯に多数の車を路上に駐車させることを、直ちに見直したほうがいいのではないか? と私は思っている。
 警察からは「八木山には駐車場がないということを前提に、イベント等の企画を進めたら如何ですか?」という発言もある。

 一方、私どもは八木山市民センターを避難所として立ち上げたお蔭で、多くの経験をさせて頂いた。
 中でも深夜、避難者が体調を崩した時のことである。
 避難所全体が「この世の終わり」のような重い空気が支配している中で、防災担当のA副会長は電話が通じないため仙台赤十字病院まで車を飛ばし、治療してもらえるか、を問い合わせたところ、「どうぞ」とばかりに、治療して頂いたことである。
 ①治療してもらえるか? を尋ねに行く。
 ②治療を受けるため患者を病院まで運ぶ。
 ③治療が終わった患者を迎えに行く。
 防災担当である仲間は、真夜中に病院と市民センターの間を3往復した。
 地元には、こんなに心強い病院があるんだ!
 私は、今でもこれを思い出すたびに感激を新たにしている。

 八木山市民センターを3月11日、避難所として立ち上げ、29日に解散するまでを、A副会長が書き留めた記録がある。
ここに紹介する。

◎わが町内会が主体となって避難所を開設した。
◎水の調達、炊き出し、衛生管理、連絡・広報を自主運営した。

 3月11日 避難所を開設
 激震であり、余震の懸念もあったこと。高齢者が多く、歩行困難者が多かったことから、八木山市民センターを避難所にして頂いた。
 同夜から館長以下スタッフの皆さんが徹夜で体制づくりに取り組んで下さった。
 初日は300人を超す避難所となった。
 八木山中学校は、「翌日が卒業式」ということで、体育館では入学式の準備が出来上がっていたのであろう。
 「中学校の避難所に入れて貰えなかったので…」という人も集まってきた。
 避難者の中からボランティアを募ったところ、自発的に30名ほどの男女が手を挙げてくれた。
 責任者(A副会長を以下責任者と呼ぶ)は役割分担として①食糧班②衛生班③広報班を作り、ボランティアから「自分が活動を希望する班」を申し出てもらった。
 この中から各班のリーダーを指名した後、避難者全員に各担当者を紹介し、混乱を防ぐため指示に従ってもらうようにした。
 看護や警護、給水、電源確保等の係も必要と考えたが、複雑にしない方がいいと考えた。
 トイレの利用については、断水のためのマナー遵守を衛生班リーダーが強く訴えた。
 避難者や来訪者の氏名を記録するノートを用意したため、後々の問い合わせなどに大変役に立った。
 夜食は備蓄されていた乾パンを利用したが、数量が足りず、後期高齢者と小学生以下の子供だけに配布した。
 備蓄品の毛布は数量が全く足りず、子供と高齢者に優先配布した。
 発電機による電力は少量のため、携帯電話の充電を制限した。
その中で、館内の公衆電話は非常に役立った。
 病人の容態が悪化した。電話が通じないため、責任者が仙台赤十字病院に行き確認後、病院に運び、応急処置を受けた後引き取りに行くなど、深夜に同病院間を3往復した。
 自力歩行ができない高齢者の頻尿もあった。いずれも恐怖と寒さによるものだった。
 そこには家族だけでなく、居合わせた人たちが手助けする光景があった。
 おむつが必要な人もいて、八木山翠風苑から譲り受けることができた。(この経験を基に、わが防災倉庫にはおむつを備蓄している。)
 東北放送が八木山市民センターの避難所開設を報じたため、夜半、入所希望や問い合わせの訪問が絶えず、混乱があった。

 
3月12日
 今後の避難所運営をどうすべきか?
 この時点では、八木山小学校には避難者を移動させることは出来ないと判断した。
 広報にホワイトボードを活用したため、避難所内のコミュニケーションには大いに役立った一方、地震の被害状況など外界の情報がなかなか入手できなかった。
 朝食の準備には大勢の人たちが積極的に参加してくれた。女性たちはアルファー米の炊き出し係、詰め合わせ係等と、分担して作業に当たってくれた。
 若い人たちのグループが温かいみそ汁を作ってくれた。「せめて温かい飲み物を」という彼らの心配りに頭が下がった。
 また、トイレで使用する水を小学校のプールまで汲みに行くことに自発的に取り組むグループも現れた。
 町内の篤志家からお米を提供して頂いたこともあった。
 2日目もほとんどの人が前日同様宿泊した。公助はいまだ期待できず、再度炊き出しをした。
 日中自宅に戻り、食糧を持ち帰ったり、防寒用の衣服や毛布を持参する等、前夜よりはるかに落ち着きを取り戻してきた。


3月13日
 退出する人も…。
 公助が早く届くことを求めて本来の避難所に移動する家族も現れた。自宅に戻る人、親類宅に身を寄せる人等、市民センターを後にする人が出てきた。
 しかし、大部分の人は留まることを希望したので、館長と話し合い、避難所としての延長をお願いした。
 その後新たな避難者が入所してきたこともあったが、組織は機能し続け、自主運営が保たれた。
 勿論市民センター職員の皆さんにはフォローを続けて頂いた。
 

3月29日  最後の避難者が3名となったので、八木山中学校避難所に移動してもらい、避難所としての市民センターの役割は終了した。
 その日、これまでの避難者に対し、お世話になった市民センターの清掃に参加を呼び掛けたところ、30名を超える人々が馳せ参じてくれた。


東日本大震災におけるわが町内会の取り組み
(八木山本町第一町内会)

1.発生から平静を取り戻すまで
 3月11日 災害時要援護者や高齢者に対し、安否の確認、避難所への誘導を行った。
       役員はその後も安否の確認を続けた。

   12日 避難所に詰め、物資の調達、避難所の設営、病弱者の見守りをした。
      (14日まで)

   15日 要援護者に対し、手分けして炊き出しのおむすびを届けた。
      (B、C両副会長、D会計部長らが自発的に炊き出しをしてくれた。)

   16日 要援護者に対し、役員が飲みもの、果物、お菓子を手分けして届けた。
      (石丸が斎藤連合町内会長に対し、みやぎ生協からの物資提供を懇請し、
       実現。)

   17日 要援護者に対し、役員が手分けしておにぎりとバナナを届けた。
      (朝鮮初級中級上級学校からの差し入れを受けた。)

   19日 支援ボランティアに対し、要援護者へのフォロー
      (特に水の供給)をお願いした。
      (すでに行動を起こされていた方に新たに行動された方が加わり、
       多数の行動に発展した。)

   21日 八木中生がボランティア活動に参加。
      (大きな戦力になることを確認。)

   22日 役員が保健師に同行を依頼、希望する要援護者を訪問。
      (7名の要援護者を訪問。)

   25日 要援護者に対し、パン、お菓子等支援物資を届ける。

   26日 市民センターへの避難者は3名となった。
       その後八木山中学校に移動してもらった。